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文化財・名勝等

1.手水舎
手水舎画像  神社神道の理念にのっとり、例祭に参列、あるいは神社参拝の時には、平素の穢れを除き清浄を旨として、手を洗い口を漱ぎ心を引き締めて参拝いたします。
 この社の手水舎は、石の上に足を踏むと水が流れます。このことは、"清手水"というように心身を清らかにしてご参拝することです。
 神道の理念は、"浄明正直"でございますので手水を使って参拝することが正式です。

2.石灯籠
 石灯籠は多く神社寺院等に見られます。装飾的には庭園等にもありますが、元来単なる照明用のものではなく、神前等に灯明を捧げて神のご加護を頂くという意味を持っています。例えば、春日灯篭など有名ですが、春日大社の境内等に見られるとおりです。
 そこで、当社の石灯籠は現在、社頭階段の傍らに一対ありますが、江戸時代・文久3年(1863)銘氏子の奉納によるものです。
 旧社殿の時代、元文4年(1739)銘の"久伊豆大明神広前"銘記のものもございました。


3.円空作神仏像

矢島家所蔵の円空仏
矢島家所蔵 円空仏
(秋葉大権現と左右の脇侍)
 山の宗教・修験道の僧・円空上人は、美濃の国(現・岐阜県)に江戸時代・寛永9年(1632)に生まれ、逆境の中で育ったようです。
 あのナタ彫りの素朴な作風で、多くの神仏像の彫像を目指して行脚されたようですが、この埼玉県にも多数の像を残されました。
 当市内には、24体残されているようですが、ともかく、当神社の別当寺南学院にも立ち寄ったと思われ、18体の作品がございます。
かくして、円空上人は、このような山の宗教たる修験道の寺院等を主として巡り、彫像に努めたものと思われます。江戸時代・元禄8年(1695)没。

4.獅子・狛犬
狛犬 狛犬

 二の鳥居を入って間もなく左右一対のア・ウンの獅子・狛犬が目を引きます。
 これは元来、古くペルシャ・インド方面から伝えられたものと云われ、高麗犬等とも表記され、神社などの殿内や社頭に据えられ魔物除け・装飾等の意味を持つという。加えて、獅子・狛犬は、石、木、金属、陶器等種々に旦り、文化財的に指定されている例もみられます。
 この外来の獅子・狛犬は一説によれば、中国でいう(じ)という想像上の獣が日本の国に伝わったのではないかと言われますが、はっきり分かりません。
 ともかく、一種の魔除け的なもので、神社などの参道等に飾られるようになったものでしょう。


5.力石
 
力石画像 もともと石には神霊が宿っているという信仰がありまして、神社の一隅に据えられている例を見ることができます。この力石は、昔、青年が成人したしるしとしてこの石を持ち上げて大人になった事を示す、いわゆる成年戒に使われたものと思われます。
 石の信仰として石占という一種の神意を問う為のものであったでしょうし、力競べをする行事の意味も持っていたでしょう。
 当神社には、三基の力石がございます。
 1宝永3年(1706)  2天保4年(1833) 
 3不詳     の三基です。 
 鹿島神宮の有名な要石(かなめいし)は、力石とは異りますが、神の依代(よりしろ)的な意味を有する磐座(いわくら)・磐境(いわさか)といったように、元来、石には霊魂が宿っているといった信仰がございました。

6.宮座
宮座居絵図 宮座居絵図

 宮座とは中世以降における鎮守神の祭祀等に関る特権的組織体のことです。
 宮司家古文書中に今からほぼ300年前、元禄10年(1697)における「宮座居絵図」がございます。当地域における上層階級的存在の名主(石川家)と南学院(矢島家)が上座に位置し、左右に9名が順番に並んで座を占めています。
 この"宮座"は歴史的に中世における荘園制衰退に伴い、各村落の祭祀を中心とした地縁的結合体としての村落共同体といえましょう。


7.一本杉


参道入口に立つ幟
(久伊豆大明神)
 今から三百年前も昔のことですが、現在の参道入口に"一本杉"と呼ばれていた大木がありました。
 宮司家の古文書中に記されている通り、江戸時代・宝暦七年(1957)頃、「世挙って一本杉という」と記録がなされている通り、一本の大杉の木が大風で倒れ、
何度植え替えてもついに枯れてしまった、という大木であったようです。
 現在、参道入口の幟立石ワク(ノボリタテイシワク)の所にこの一本杉はあったそうです。

中里忠博 著 「蓮田の伝説(2)」にこの一本杉の話が掲載されています。


8.鰐口(わにぐち)
鰐口の図
鰐口の図
(注)前・蓮田市指定文化財
現・花井道雄氏所蔵
かつて明治40年(1907)、現宮司の矢島慶久家敷地内において発見されたもので、一種の神・仏具です。
神仏の御霊を和めるところの祭具の一つと考えられましょう。
昔、神社もしくは旧別当寺南学院に参拝用として用いられていたものではないかと推測されます。
これは鎌倉時代・正和3年(1314)銘記のもので、文献的には「久伊豆神社・嘉吉三年(1443)勧請」でございますが、久伊豆神社の極めて古い歴史を秘めているものと言えましょう。

9.南江筆塚碑(なんこうふでづかのひ)
南江筆塚碑画像  久伊豆神社宮司家(矢島)では、江戸時代中期頃と想像されますが、別当寺・太雲山南学院内において、明治期初頭の学制発布(1873)に至るまで、子弟教育のための寺子屋教育を行っていました。
 当時、寺院の僧侶等が子弟教育のために多くこのような例が見れられ、南学堂と称され、特に傑出していたのは矢島家第十二代・慶学(麗玉斎南江 寛政4年・1792〜文久3年・1863) が著名で、門弟五百名であったということです。

 そして、慶学は儒学者・南画家という秀でた存在であったと言われています。その死を惜しんで、その翌年元治元年(1864)この碑が建立されました。

10.湯立神事

湯立神事庭上図  一般的に元来巫女(みこ)等が竹をめぐらせた釜の周囲を巡り、笹に熱湯を浸し神に祈念する神事ですが、古代の盟神探湯(くがたち)を起源とするものであろうし、湯立神楽等が継承されています。
 古老の話によると、この社には秋葉神社も祀られているように、単的に火祭の類があったとされ、この宮司家古文書に残されている湯立神事が軌を一にするものではないかと想像されます。
宮司家古文書によれば庭上図として、斎場四隅に忌竹を立て注連縄を張って中心に釜を据え、奥に御幣を立てて神饌物を供えるといった形をなしています。
 そして、探湯祝詞(くがたちののりと)を奏上されたようでその祝詞が残されています。加えて鎮火祭祝詞やそれに関係する版木も現存しています。
   

11.山王(さんのう)=日枝神社

山王権現=日枝大神
 元来、古記録によると、当久伊豆神社には境外神社が存していました。それは、「山王権現」(日枝神社)という社で、神社の境内に祀られている末社が境内社、境外地に祀られている神社を境外社と申します。
この境外社である山王権現は、明治時代と想像されますが、何らかの理由で廃祀され現在当神社の東方の地に祀られています。
そこで、この山王権現(通称・山王)と呼称されている日枝神社は現在民家の屋敷となっており、上山王・下山王と称されています。
 ところで、この山王権現はその昔比較的広い境内地であったようです。宮司家の古文書「太雲山社領」中に「東西弐拾参間南北拾二間九畝云ト」と記されています。現在の尺貫法で申せば約270坪でございましょう。
なお、山王権現(日枝神社)のご神体は宮司・矢島家において祀られております。
 加えて、日吉神社(ひえじんじゃ)のご祭神は大山咋神です。この神は古事記によると大年神の御子神で、近江国(滋賀県)比叡山に鎮まる"山の神"であるとされています。
 山王権現については古い時代の神仏習合の名残で、"権現"というのは仏が神の形として現れるという意味です。日吉(ひえ)=日枝でございます。

天神祠(石神像)
嘉永6年(1853)建立
学問の神・菅原道真公

12.関係資料

●久伊豆神社誌稿 ―旧江ヶ崎村惣鎮守久伊豆大明神―
  矢島忠男 著  発行 久伊豆神社

●さきたま文庫64 久伊豆神社《蓮田》 田村敬 著 さきたま出版会

蓮田の伝説(2) 中里忠博 著 私家版 
書籍:蓮田の伝説(2)表紙 蓮田の伝説(2)中里忠博著

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