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神社由緒

久伊豆神社社殿
現在の江ヶ崎久伊豆神社社殿


江ヶ崎久伊豆神社旧社殿
 当神社は、大国主神を御祭神とする蓮田最古の神社と言われております。
 室町時代・嘉吉3年(1443)に勧請され、その後永禄6年(1563)、別当寺として太雲山南学院が開基され、神仏混交の形で神社の祭祀を司って来ました。そして江戸時代・宝暦7年(1757)神祇管領(卜部兼雄)より"久伊豆大明神幣帛"を拝受。その後明治元年(1868)神仏分離・国家管理の神社となり、昭和21年(1946)宗教法人となりました。
 なお旧別当寺太雲山南学院・矢島家が累代世襲の宮司となり現在に至っております。

※上の写真最前列
 中央の向かって左の赤袍が  献幣使・所沢八幡神社 中義智 宮司
 向かって右の赤袍が久伊豆神社 矢島忠男 宮司
 右の緑袍が大宮氷川神社 矢島忠秀 権禰宜

幣帛の表面画像
幣帛の表面
幣帛の内容画像
幣帛の内容

神仏習合から神仏分離へ


太雲山社領表紙
太雲山社領の表紙
 神社は元来神仏習合(混交)と言って、神社と寺院は別々の存在ではなかった。つまり、奈良時代から神と仏は一心同体と考えられ、神社の境内等に神宮寺・別当寺といったものが設けられ、例えば八幡大菩薩とかいうように、神社には付属の寺院が存していました。
 これが明治元年(1868)、明治維新の折りいわゆる神仏判然令(明治元年3月28日・太政官布告)が出され、神社は国家管離とされ、多くの寺院は廃寺となりました。その多くは、山の宗教たる修験道の寺院であったようです。
 当神社の場合は、元、京都の天台宗修験道総本山聖護院の末寺として"太雲山南学院"の社僧が神社に奉仕しつつ、寺院の僧侶でもありました。そして、明治元年、別当寺の廃止となり、神職(神主)となりました(社僧の復飾)。
 
太雲山社領太雲山社領
太雲山社領

寺子屋から江ヶ崎学校へ


寺子屋から江ヶ崎学校へ
 この神社の神職家(旧別当寺 太雲山南学院)は、元来、江戸時代末期に至るまで近郷近在の子供達の教育に当たっていました。明治4年(1872)学制発布と共に寺子屋の廃止と同時に"江ヶ崎学校(小学校)"が設置され、小学校の形で出発しました。
 そこで、寺子屋時代、第12代矢島慶学(号=麗玉齋南江 寛政4:1792〜文久3:1863)が著名で、儒学者・南画家として活躍し、現在"南江筆塚碑”の遺跡として残されています。
 当時、江戸期においては代々社僧として教育に当たり、明治初期の学制発布と共に江ヶ崎学校の教師として貢献しました。
 後、明治19年(1886)3月、江ヶ崎学校は廃止となり、そして黒浜学校(真浄寺内)と合併し、組合立黒浜尋常高等小学校となりました。
慶久写真
久伊豆神社社掌で最後の江ヶ崎学校の教師の第14代・矢島慶久
(天保17・1846〜明治41・1908)
黒浜尋常高等小学校(昭和13年3月 卒業記念アルバムより)

兼務社

次の神社は常駐神職はおらず、当神社宮司が社務を兼任しております。
御祈祷等は当神社(江ヶ崎久伊豆神社)にお問い合わせください。

蓮田 江ヶ崎 久伊豆神社
〒349−0102 埼玉県蓮田市江ヶ崎1202番地
TEL/FAX 048-768-5233 TEL 048-764-0811
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書籍:神社と寺院の表紙
兼務社の写真は「神社と寺院」に掲載されたものを転載しております。一部最新の社殿と異なるものが含まれることがありますが、ご了承ください。
   
   

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